僕はその日、プロレスが開催されると聞いて、神戸の新開地という場所に向かっていた。
阪神・淡路大震災復興チャリティープロレスだ。
1995年1月17日、阪神・淡路地方を襲った大震災により、神戸の街は壊滅状態となった。
特に新開地駅周辺は、震災直後に火災が発生した影響で一面焼け野原となる被害を受けていた。
その焼け野原にリングを設置し、プロレスの試合が開催されるという情報が僕の耳に飛び込んだ。
主催者は故ミスター・ヒトさんこと安達勝治さん。残念ながら現役時代のことは存じ上げていないが、名選手だったと聞く。
そのミスター・ヒトさんが、神戸の街でチャリティープロレスを開催するというのだ。
被災地、神戸・新開地へと走る
チャリティープロレスが開催されることを教えてくれたのは、僕と同じくプロレス好きの同級生。なぜ彼が新開地でプロレスが開催されることを知っていたのかはよく分からない。
「母親が教えてくれた」と言っていたが、いまいち記憶が定かではないようだ。
震災直後は僕も含め、皆記憶があやふやになっているような気がする。
僕は近くの公園に逃げ、その日のうちに通っていた母校の小学校に避難し、数週間をそこで過ごしたことは覚えている。しかし、それも断片的に覚えているのみではっきりとした記憶は残っていない。
もっと言えば、彼がその情報をどのように僕に伝えて、僕らはどのように落ち合ってプロレスが開催される新開地に向かったのかも覚えていない。
携帯電話なんて持ち合わせていなかったし、家の電話も不通状態が何週間も続いていたと思う。
とにかく、二人で新開地に向かって自転車を走らせていた。それだけは覚えている。
震災二日後、全日本プロレスが大阪大会を決行
プロレスを観るのは久しぶりだ。
これは有名な話だが、阪神・淡路大震災の二日後、全日本プロレスは予定されていた大阪府立体育館大会を決行した。
メインイベントでは川田利明選手と小橋健太選手が、三冠統一ヘビー級選手権で60分フルタイムドローという壮絶な試合を見せたという。
当然のごとく、僕らはこの大会のチケットを持っていた。
しかし、大震災により街は壊滅、大阪までの交通手段も鎖された中での観戦は不可能。というより、あまりに非常事態だったのだろう。いつもだったら忘れるはずがないプロレス観戦自体が頭から消え去っていたと思う。
当時社長だったジャイアント馬場さんは大阪大会の開催を直前まで迷っていたと聞く。おそらく自粛の声もあっただろうが馬場さんは決行した。
個人的な意見だが、私はこの判断を大いに支持する。観戦できなかったのは残念だが、仮に延期や中止にしたところで、あのときの僕らの生活や心情にはなんの影響も及ぼさない。
それよりも、60分フルタイムで凄まじい試合を見せたという情報が、どれだけ僕らの気持ちを奮い立たせてくれただろうか。そのことに感謝した。
この時のチケットは、全日本プロレスの温情で、後日に開催される大阪府立体育館のチケットに振り替えていただいた。聞けば、大阪大会のファイトマネーも全額被災地に寄付していただいたようだ。
本当にありがたく思う。
焼け野原に見えたプロレスのリング
新開地までは私鉄電車で数駅の距離。普段であれば電車を使って数分程度だが、あいにく大震災以来電車は通っていない。そうなると選択肢は自転車のみ。あらゆる交通手段が壊滅した震災後の街で、大活躍していた自転車だ。
自転車を使うと、僕らの住む街から新開地までは数十分程度。ただし、それは平常時の話。あちらこちらの道路が陥没し、瓦礫が残されたままの神戸の街ではおそらく倍くらいの時間がかかるだろう。僕らは念のため試合開始時間から逆算して早めに家を出発した。もちろん、正確な試合開始時間だって覚えてはいない。たぶん昼過ぎだったように思う。
しかし、僕らの予想は良い意味で裏切られていた。
裏通りこそ数多くの瓦礫が残るものの、大通りは綺麗に整備されていて自転車で走るぶんには何も問題がなかった。
思っていた以上に、街は復興していたのだ。
しばらく自転車で走ると、遠くのほうにプロレスのリングらしきものが見えてきた。
冒頭で説明したとおり、新開地駅周辺は焼け野原になっていた。そのため、遠くのほうからでもプロレスのリングがよく見えていた。
たしか「新開地駅前の広場」というぼんやりとした情報しかなかった試合会場だが、迷うことなくたどり着くことができた。
被災地でプロレスが始まった
天気良好!僕らが会場に着いたときには200人くらいの観客がいただろうか。家族で近くの避難所から来た人たち、通りがかって足を止めた人たちなど、プロレスファンではなさそうな人たちがよく目立っていた。
それでも、待ちきれないといった表情でリング周辺に敷き詰められたブルーシートに座っていたように思う。
僕らも空いているスペースを見つけて腰を下ろした。
しばらくすると、第一試合が始まった。試合数やその日のカードはもちろん覚えていない。入場テーマがあったかどうかも分からない。とにかく、焼け野原と崩れた建物にプロレスのリングというミスマッチな状況の中、試合が始まった。
それまでも、パチンコの駐車場や空き地でのプロレスの試合を見たことはあったが、それとはまた雰囲気が違うように感じた。
阪神・淡路大震災復興プロレス
ここで印象に残っているのは、観客が皆楽しそうだったということ。たぶんプロレスを初めて観たという人も大勢いたように思う。それでも、選手たちの一挙手一投足に皆が沸いていた。
場外乱闘が始まった。このあたりは鮮明に覚えている。
スーパーライダー選手(このときはホッパーキングという名前だったかも、もしかするとまったく違う選手かもしれません)という仮面ライダーのマスクを被った選手が、場外で対戦相手を腕ひしぎ逆十字固めで捕らえた。
もちろん場外なので、レフェリーを務めるミスター・ヒトさんは注意に入るが、ライダー選手は離さない。
執拗にしめ続けるライダー選手に業を煮やし、なんとミスター・ヒトさんはライダー選手の頭を叩き「早くリングに戻れ」と一括!それに合わせて観客席から大爆笑が起こった。
これには衝撃が走った。それまでプロレスといえばある程度の反則はあれど、レフェリーが選手に手を出すのはご法度。
今ではよく見る光景だが、こういったシーンを初めて観る僕は、ミスター・ヒトさんのつっこみとも言えるレフェリングに驚いた。「こういうプロレスもあるんだな」と思った瞬間だ。
メインイベントは剛竜馬選手とジェシー・バー選手が闘ったと思う。
何度も繰り返すがかなり記憶があいまいだ。直前の試合の腕ひしぎ逆十字固めの衝撃が残っているのかもしれない。
全試合終了後、観客の大歓声を選手たちが浴びていたのは覚えている。泣いていた人たちもたくさんいたと思う。僕も惜しみない拍手を送った。
試合終了後は選手たちのチャリティーイベントか何かをやっていたと思う。その辺はあまり覚えていない。
たぶん僕たちはすぐに自転車に乗って来た道を引き返したんだと思う。戻って食料の配給とか瓦礫の撤去とかいろいろやらなければいけないことがあったのだろう。
追加情報
震災からこの日で21年を迎えた。今まで何度となく当時の記憶を思い出そうと試みたが、ここに書いたこと以上のことは思い出せない。
インターネットで検索してみても、残念ながらこのことはあまり出てこない。
おそらくこの試合を観た人自体が少ないのだろう。私自身もプロレスを観るときはカメラを持っていき、数枚の写真を残すようにしていたはずだが、この試合に関しては何も残していない。ただ断片的な記憶が残るのみだ。
この記事を読んだ方から、いくつかの情報をいただきました。ありがとうございます。
- 地元民は身分証明書を見せて無料観戦できた。
- 試合後は剛竜馬選手の「ショアッ!」で盛り上がった。
- 試合の合間に河内家菊水丸さんの河内音頭があった。
- 開催時期は1995年4月15日(土)。
- 剛竜馬さんは寒いのに半袖で歩いていた。
- 開催地は神戸・新開地劇場跡地で3,500人(超満員)の観客
- アニマル浜口&桂文福師匠のトークショーがあった
- メキシカンを除く全選手は自費で現地入りし、ファイトマネーもなし
- 第一試合「エキシビションマッチ」
- 第二試合「宮本猛vs塚田敬&田中幸一」
- 第三試合「ホッパーキング&島田宏vs戸井マサル&ブラックホール」
- 第四試合「フライトルメンタ&トルメンタJr vs チャカール&ボーイ・デンジャー」
- 第五試合「高木功&神風vsKナガサキ&あじゃ幸司」
- 第六試合「剛竜馬vsジェシーバー」
実際に会場で観たという方たちからいただいた情報です。ありがとうございます。感謝します。
週刊ゴング1995年5月11/18日号で「がんばれや!WE LOVE KOBE 復興プロレス大会」が掲載されていることが分かりました。
ありがとうございます。